現地報告 イラクと南スーダン・平和構築の課題

現地報告 イラクと南スーダン・平和構築の課題

東 大作(上智大学教授)

*この記事は「外交」Vol.55に掲載された「現地報告 イラクと南スーダン・平和構築の課題」を加筆修正したものです。

  国民和解に配慮したイラク総選挙。一度挫折し、大きな犠牲を出した南スーダン和平。
  常に当事者の中に入って和平を模索してきた筆者がイラク・南スーダン両国の最新の動きを現地で探り、
  今後の和平の方向と日本の貢献について考える。

 2019年2月17日、著者は、UNHCR協会理事長の滝澤三郎氏と共に、外務大臣の委嘱による公務派遣で、イラクのバグダッドに入った。著者にとっては、昨年2月に同様の公務派遣によってイラクを訪問して以来、2度目のイラク訪問となった。バグダッドは気候もよく、心なしか、治安も落ち着いているように見えた。
 昨年のイラク訪問以来、イラクの政治は激動が続いた。2018年5月12日に総選挙が行われ、329の国会議員の席を巡り、7000人近い候補者による激しい選挙戦が行われた。その後、選挙戦で多くの不正があったという指摘を受けて、再集計が行われたが、選挙結果そのものに大きな変更はなく、同年8月、イラク最高裁が投票結果を確定した。
 2003年に米国がイラクに侵攻してフセイン政権が倒れ、05年から始まったイラクの国政選挙は、比例代表制のため、どうしても多くの政党が乱立する。今回は、シーア派の宗教指導者であるサドル師が実質上のリーダーである政党連合「サイルーン」が、54議席と最も多い議席を獲得。また、14年にISISとの戦闘が本格化した後、政界を一時離れ、イラク民兵組織を率いてISISとの戦闘で大きな成果を収めたアミリ元運輸相が新たに作った政党連合「ファタハ」が48議席と第二勢力に躍り出た。他方、14年から首相を務め、イラク政府のトップとしてISISとの戦闘を行い、17年末に勝利宣言をしたアバデ首相(当時)が作った「勝利連合」は、42議席に留まった。これに続き、アバディ首相の前任者で、シーア派を代表する副大統領でもあったマリキ氏率いる政党連合「正義と法」が25議席を獲得した。

国内融和を優先させたアブダルマハディ政権

 選挙後の組閣を巡っては、サドル師率いる「サイルーン」とアバディ元首相率いる「勝利連合」が多数派工作に成功できるかが、大きな焦点であった。著者がイラクで何人かの専門家から聞いた話によれば、サドル師は、アバディ首相が元々所属していた「ダウワ党」を離れ、純粋なテクノクラート政権を作ることで、サドル師と同意するのであれば、「アバディ氏に、今後も首相を任せてよい」と持ち掛けたと言われる。しかしアバディ氏は、その提案を拒否した。これを知って、アバディ氏の政党連合から20人近くの議員が、アバディ氏のもとを去って、別の政党連合を形成するに至り、アバディ氏は、わずか20名弱を率いるリーダーに転落してしまった。
 このサドル師とアバディ氏が形成した政党連合の集合体(日本の国会会派に似ている)が「変革」である。一方、それに対抗する形で作られたのが、前述したアミリ元運輸相とマリキ元首相が中心となって形成した「建設」であった。両者の主な違いは、アミリ元運輸相やマリキ元首相が中心の「建設」が隣国イランと非常に近い立場にあるのに対し、「変革」はイランに対しても米国に対しても距離を置き、独自路線による改革、特に腐敗の根絶を旗印にしている。8月に選挙結果が確定して以来、この「変革」と「建設」のどちらが首相を擁立できるかで、激しい綱引きが繰り広げられた。
 その後、イラクシーア派の最高宗教指導者シスターニ氏が、「まだ首相になっていない、新たな指導者が首相になるべき」というメッセージを出す。その背景には、現職首相であるアバディ氏や元首相のマリキ氏が首相になった場合、この「変革」と「建設」の対立が激しくなり、またイラクが内紛に戻ることを恐れたのではと推測されている。その結果、「変革」と「建設」の双方が支持できる、2005年から11年まで副大統領を務め、元共産党員で、かつイランにも亡命したことがあるアブダルマハディ氏が、国会の支持を得て首相に任命された。強い指導者ではないが、「変革」と「建設」の双方から拒絶されない指導者として白羽の矢が立ったのだ。
 そのため、アブダルマハディ首相は、昨年10月の組閣にあたり、「変革」からも「建設」からも、そしてクルド人政党からも閣僚を選び、形の上では、多くの政党が参加した国民総与党内閣を発足させた。また、イラクにおける少数派で、2003年以降、シーア派との対立が内戦の大きな要因となっていたスンニ派の閣僚も5人ほど任命し、国民和解に配慮した組閣を行ったことは間違いない。また「変革」も「建設」も、それぞれを構成する政党連合の中に、スンニ派の国会議員が多数参加している。その意味で、シーア派対スンニ派という対立構造が、政治対立の軸として薄まっていることは事実である。

宗派対立克服の重要性を再認識

 今回の公務派遣の一つの大きな行事が、バグダッド大学と日本大使館の共催で行われる平和構築に関するセミナーで、私と滝澤理事長が基調講演を行い、バグダッド大学の教授陣や学生と意見交換を行って、日本とイラクの知的交流を広げることにあった。日本大使館で開催されたセミナーには、60人ものバグダッド大学関係者が集まったが、そこでもシーア派とスンニ派の宗派対立を乗り越えていけるかが、大きなテーマであった。
 私は、アフガンやシリア、南スーダン、東テイモールなどにおける和平プロセスや平和構築の課題について話した後、最後にイラクに触れた。今後イラクの平和構築の最優先課題は、1)宗派対立を超える国民和解、2)石油収入の透明性ある運営と利用(腐敗対策)、3)ISISと戦った民兵組織の統合も含めた警察や軍の改革、だと強調した。
 これに対し、コメンテーターを務めてくれたバグダッド大学のラディ教授が、「国民和解についていうと、シーア派とスンニ派という対立の構図は、かなりなくなった。その点は、大きな進展だ」と語った。その一方、私が講演で紹介したデミツラ国連シリア特使が述べた「シリアにおいて、アサド政権が一方的に軍事勝利しても、スンニ派の不満は残り、やがて第二第三のISISが出現する。だからこそ反対派との和平合意が必要」というコメントを取り上げ、「デミツラ特使の主張は、イラクにもそのままあてはまる。軍事的勝利だけでは、持続的な平和は得られない。まさにイラクもこれからが正念場なのだ」と熱く語ってくれた。他にも、女子学生も含め多くの人からコメントや質問が相次ぎ、この16年間、50万人を超える死者を出したといわれる内戦を経験したイラクの人たちが真剣に向き合って議論してくれたことに感激した。

三人の元首相が語る国内和解へのビジョン
またバグダッド滞在中、アバディ元首相、マリキ元首相、それに、他の政党連合のトップであるアラウィ元首相やハキム師、ルエダス国連イラク支援ミッション副代表など多くの要人と、それぞれ1時間から1時間半かけて個別に懇談し、議論する機会を得た。

①マリキ氏「新政権は順調に進む」
 最初に会った、アミリ元運輸相と共に「建設」の中心的な立場にいるマリキ元首相は、昨年の訪問に続き2回目の懇談だったこともあり、気さくに話してくれた。「今回、平和的に政権移行が成し遂げられたことは、よかったです。そして、私たち『建設』が主張する、法の支配や、公共事業の拡大、インフラ整備などは、『変革』の側からも合意を得ており、順調に進むと考えています」と自信たっぷりに語った。このあたり、多くの専門家が、現首相により大きな影響力を保持するのは「建設」側であるという観測を裏付けるようでもあった。

②アバディ氏「テクノクラート内閣と民主主義のジレンマ」
 これに対して、昨年10月まで首相を務めたアバディ元首相は、自ら遂行したISISとの戦いについて次のように主張した。「ISISに勝利するためには、スンニ派の人たちの、政府への不信感をどう払しょくするかが鍵でした。まず私は、スンニ派の人たちが住む地域への爆撃を止めるよう指示しました。それは、ISISとの戦闘において不利益があると分かっていましたが、スンニの人々の理解と支持を得ることが一番大事だと思ったのです。そして、スンニ派の政治指導者や宗教指導者、スンニ派の民兵組織ともなるだけ多く会って、共にISISと戦う機運を作るために最善を尽くしました。サウジにも足を運び、湾岸諸国の支持も得るようにし、米国をはじめ海外からの軍事支援と介入も得て、最終的に勝利できました」。
 そのあと筆者は、アバディ元首相に対し、組閣に向けた交渉の中で、サドル師から受けた提案を受け入れ、首相を継続する道をなぜ選ばなかったのか、あえて聞いてみた。アバディ氏は微笑して、「サドル師からは、『政党や国会議員に頼らない、テクノクラート内閣を作りたい』という提案を受けました。しかし、政党や国会議員をほとんど無視して内閣を構成したら、それはもう民主主義とは呼べないのではと思いました。それは越えられない一線だと思い、私はその提案を断ったのです」と語った。
 最後に今後のイラクの国民和解の課題について聞くと、彼は、表情を厳しくして、まだ楽観できないと語った。「実は、私たちアラブ人の中には、オスマン帝国に代表されるように、『以前は世界の中心だったのに、なぜ今、こんな貧困や失業、治安の悪さなどに苦しむのか。やはりカリフのような昔の体制を取り戻すしかないのではないか』と安易に考えてしまう土壌があるのです。ISISはそれに付け込んできました。イラクの多くの人々の心の中に、こうした思想がまだ残っているのです。これを解消するには、国を安定させ人々の暮らしを豊かで、安全なものにするしかありません。その意味ではまだまだ長い道のりだと私は覚悟しています」とアバディ元首相は、淡々と、しかし確信を持って語っていた。

③アラウィ氏「スンニ派国内難民が放置されている」
 最後に会ったアラウィ元首相は、以前から「ワターニヤ」という宗派を超えた世俗派の政党を作って、宗派を超えた政治の樹立を訴えてきた。マリキ元首相同様、昨年も懇談していたこともあり、アラウィ元首相は、本音でこれまでの政治家とは異なる見解を述べた。「表面的には、スンニ派とシーア派の対立はなくなったように見えるかも知れませんが、実際には、国民和解は進んでいません。特に180万人近い国内難民のほとんどがスンニ派ですが、ほとんどの人が放置されたままだ。これで国民和解に真剣だと言えるでしょうか」
 シーア派に属しつつ古くからスンニ派の人たちと共に歩んできたアラウィ氏は、現在の政権をイランの影響を受けすぎていると強く批判しつつ、「私はまだ諦めていません。来月にも、シーア派、スンニ派、クルド派、若者と、女性など、全国から数百人の代表を集めてセミナーを開き、真の国民和解に向けた対話を始める予定です」と熱く語った。
 今回のイラク訪問を受けて筆者は、ISISとの戦い、総選挙、組閣などを経て、イラクが一定の前進を見せ、国民和解と持続的な平和に向けて歩き出していることを実感した。その一方、まだ紛争に後戻りしかねない様々な要因が拮抗していることも事実であった。

南スーダン 独立後の苦悩

 バグダッド空港で滝澤理事長と別れた後、私は一人、トルコ、エチオピアで、それぞれ講演を行いながら現地調査を続け、2月27日に、南スーダンのジュバに入った。南スーダンもイラクと同様、外務大臣の委嘱による公務派遣であった。
 ジュバにおいては、ジュバ大学で講演をして、ジュバ大学の教員や学生と議論すると同時に、タバン・デン・ガイ第一副大統領、ロムロ内閣府担当大臣、トット高等教育担当大臣、シーラ国連南スーダン特別代表、マチャール氏の側近だったアドワック元高等教育担当大臣、など多くの要人にインタビューした(ワイスIGAD南スーダン特使とはアジスアベバで面会した)。
 南スーダンでは、国民投票を受けて、2011年7月にスーダンからの独立を果たしたものの、13年末にキール大統領とマチャール元副大統領の間で戦闘が勃発し、全土に戦闘が拡大した。15年8月に、東アフリカの地域機構である政府間開発機構(IAGD)の仲介により両者は和平合意に至り、16年4月末に国民和解暫定政府が樹立され、マチャール氏が第一副大統領としてジュバに戻った。しかしそのわずか2か月後、両者の警護隊が大統領公邸で銃撃戦となったことがきっかけで全面的な戦闘に発展し、マチャール氏とその部隊1300人はジュバから脱出。マチャール氏は、海外からキール大統領政権の打倒を訴えて、全ての南スーダン人に銃を取って戦うよう呼び掛けた。
 その結果、南スーダン全土で政府側と反政府側組織による血みどろの戦いが繰り広げられ、国内避難民が約200万人、国外に逃れた難民が約200万人、あわせて400万人もの南スーダン市民が家を追われ、生死の境をさまようという、アフリカでも最大の人道危機に陥ってしまったのである。
 IGADの主要メンバーである、エチオピア、スーダン、ケニア、ウガンダなど周辺諸国にも何十万単位の難民が押し寄せた。なんとか南スーダンの戦闘を収束させようとIGADが再度働きかけ、2017年末から、エチオピアのアジスアベバで「南スーダン和平合意再活性化交渉」が始まる。今回は、IGADのワイス南スーダン担当特使が、キール大統領やマチャール氏だけでなく、軍事勢力を持たない政治団体や、女性団体、若者の団体などとも対話を続け、20を超えるグループが参加する和平交渉プロセスを発足させた。
 しかし、断続的にアジスアベバで開催された再活性化和平交渉は、参加する団体が非常に多かったこともあり、それぞれの主張を言い合うことに終始し、合意がまとまる兆しがなかった。一方激しい戦闘が続き、国の南部では「とどまっているのは軍人だけで、民間人はほとんど難民になってしまった」というような悲惨な状況に陥っていた。筆者は2018年3月にアジスアベバや、ウガンダ、ケニアなどで調査を行っていたが、その時は、AUの幹部が一様に「このままでは南スーダンは破局だ。指導部への制裁を行わないと活路は開けないかも知れない」と危機感を露わにしていた。

周辺国の関与で和平交渉が再活性化

 こうした事態を受け、IGADでは、「やはりマチャール氏とキール大統領を直接会談させて、まず二人が合意しないと、まったく先に進めない」という認識が強まった。6月20日に、まずエチオピアのアビ首相の仲介で、キール氏とマチャール氏の会談が行われる。しかしこの時、在エチオピア南スーダン次席大使の話では、キール大統領は「マチャール氏とは何度も和平合意したが、常に裏切られてきた。たとえ暫定政権でも、もう一緒にはやれない」と訴え、話は全く進展しなかった。
 これを受けて、エチオピアのアビ首相は、スーダンのバシール大統領に託すことを決める。「あなたは、キール大統領もよく知っているし、マチャール氏は支援してきた間柄だ。あなたならなんとか仲介できるのではないか」。バシール大統領も、この話をすぐに受けた。その背景には、南スーダンが内戦のために全く石油生産ができず、南スーダンからの石油のパイプライン使用料が重要な収入源だったスーダンの経済状況が苦境に陥っていたことがある。さらにバシール大統領自身も、国際刑事裁判所から起訴されている中、「自分は、平和を作る指導者でもある」と国際社会に知って欲しいという気持ちも強くあった(IGAD幹部の話)。
 バシール大統領が政治的な手腕を見せたのは、キール大統領を一貫して支援してきたるウガンダのムセベニ大統領に和平交渉への参加を呼びかけ、成功したことである。マチャール氏を長年支援してきたバシール大統領と、キール大統領を支え続けているムセベニ大統領が、二人一緒になって本気で説得すれば、合意は可能だと考えたのだ。
 こうして、2018年6月24日からスーダンの首都ハルツームで、約一か月にわたる和平交渉が断続的に続けられ、1)マチャール氏の軍隊や政府軍などを合体させて、一つの国民軍と警察を作ること、2)新暫定内閣の35人の閣僚のポスト配分(キール大統領側から20人、マチャール側から9人、その他の反政府グループから4人、海外在籍グループから2人)など、政府や国会、特別委員会などでの権力分有に関する合意が成立。同年9月12日に、アジスアベバで包括的和平合意が、再度締結された。

和平合意実施に向けた難題と日本の支援

 この和平合意の実施に関する進展状況を知ることが、今回の訪問の大きな目的であった。和平合意実施の中心的役割を担っているロムロ内閣府担当大臣に面会すると、「とにかく治安セクター(軍と警察)改革が全てだ。和平合意実施の最大の難関が、政府側と反政府側の部隊を一つに合体し、共通の『スーダン政府軍』を作ることができるかどうかなのだ。しかしその実施は、資金不足もあって極端に遅れている。これをどう乗り越えるかが、最大の課題だ」と力説した。
 計画では、南スーダン全土に40以上の駐屯地を作り、これまで戦ってきた部隊が合体して、新たなスーダン政府軍になることが予定されている。この背景には、2015年の和平合意実施過程で、マチャール氏の軍隊とキール大統領の軍隊がそれぞれ駐屯地を持ち、軍の指揮系統が分かれたまま存在したことが、その後の軍事衝突の大きな要因になってしまったという反省がある。
 しかし、異なる軍を一つにして新たな軍を作るには多額の費用がかかり、南スーダン政府が算出した金額では、約240億円が必要とされる。しかしこの和平合意の実施の核であるプロジェクトに対して、支援拠出を表明している国がまだないのである。その要因の多くは、建国以来、南スーダンを支援してきた、米国・英国・ノルウェー(通称トロイカ)、欧州連合(EU)などが、今回の合意の実施にまだ懐疑的で、支援を見送っていることがある。ロムロ大臣は、「もうトロイカがどう考えているかなど気にしている余裕はない」と、和平合意の支援に慎重なトロイカへの不満をにじませた。実際、昨年9月の合意から8か月後である今年5月までに軍や警察の改革を完結し、新たな連立内閣を発足させることになっていたが、その見通しが立たず、新連立内閣の発足は半年延期されることが、5月初旬に決定された。 
 そんな中、南スーダンの和平合意支援を、真摯に、そして懸命に続けている先進国は日本だけなのである。日本は2017年度補正予算で獲得したIGADを通じた南スーダン和平支援約3.8億円のうち、約2.6億円を18年度にIGADが行った和平仲介支援に拠出した。IGADの南スーダン仲介支援を行っているのも日本だけであり、IGADの事務所経費や渡航費も含め、2018年度の和平合意のためにIGADが果たした極めて重要な役割は日本の支援があって初めて実現可能だったのだ。また19年2月には、1.2億円を、IGADを通じて、暫定政府作り支援のための拠出を行い、これから暫定統一連立内閣を作るために不可欠な大臣の旅費や宿泊費、事務所建設費なども、日本の支援があって初めてスタートできる状況であった。南スーダンのどこに行っても、日本の研究者ということで、政府側からも反政府側の人々からも歓待を受けたのはそんな事情があった。
 2017年5月に自衛隊部隊が南スーダンから撤収する際、筆者は「今後も南スーダンの行政官の育成をはじめ、南スーダンへの支援を継続し、決して見捨てた訳ではないことを示すことが重要」と、本誌も含め多くのメデイアで指摘されたが、まさに現在、日本がアフリカの和平合意支援における中心的な役割を担っていることを、現地に入って実感した。これはおそらく、日本の対アフリカ外交における初めてのケースでもある。

軍は再び統合できるか

 筆者のジュバ滞在中、地方に出張中であったキール大統領の次のランクであるタバン・デン・ガイ第一副大統領が、一時間ほどインタビューに応じてくれた。タバン・デン・ガイ第一副大統領は、2016年の戦闘でマチャール第一副大統領が国外に避難した際、マチャール派であったにもかかわらず、政府内に留まることを決断し、キール大統領から第一副大統領に任命された人物である。長年スーダン政府との独立戦争を戦った将軍でもあるタバン・デン・ガイ氏は、今回の和平合意に基づいてマチャール氏がジュバに戻り第一副大統領に復帰すると、第一副大統領から4人の副大統領の一人に格下げされる。その意味でも、南スーダン政界の渦中の人物であった。
 タバン・デン・ガイ副大統領は、まず「本当にキール大統領とマチャール副大統領は一緒にやっていけるのか」という筆者の問いに対し、「サルバ(キール大統領のファーストネーム)もリック(同マチャール氏)も私も、前回の失敗から多くを学んだつもりだ。本当は、リックが指名する他の人物が第一副大統領になるべきと考えていたが、政治に妥協はつきもので私は受け入れている。とにかく国民は戦争に飽いており、我々政治家も同じ失敗はできない」と語った。そして治安セクター改革については、「政府軍もマチャールの軍も、元は、スーダン政府と共に戦ったスーダン人民解放戦線(SPLA)の人たちだ。SPLAには、10人の核となる将軍がいるが、実はみんな仲はよい。ただ政治的に利用されて、分裂していたのにすぎないのだ。だから、キール大統領とマチャール氏が本気で和解すれば、軍は、どうすれば統合できるかは分かっている」と語り、政治的な意思さえあれば、軍の統合は現実的だという見方を示した。
 その上でガイ副大統領は、「軍の統合を待っていると、いつまでも暫定連立政権が発足できず、国際社会の不信感がさらに高まる。先に連立内閣の発足を行うべきだ」と話した。そして、「3年後には選挙で決着をつける。だから軍人は軍の統合に専念し、政治家は、少しでも国民の期待に応えて選挙に勝つことに専念すべきだ。そうしなければまた紛争に後戻りしてしまう」と主張した。この「連立内閣発足が先か、軍の統合が先か」という選択は、今後の南スーダン和平を占う、大きな分かれ目になると思われる。

「グローバル・ファシリテーター」としての支援を

 このように、南スーダン和平プロセスは、成功の方向に向かうのか、再度失敗に向かうのか予断を許さない情勢である。一方で、そこで数千万人もの罪もない人々が苦しんでいる以上、平和に向けた支援を全くやめてしまうことはできない。
 日本はイラクにおいても南スーダンにおいても、インフラ支援や、政府の能力構築支援、難民や国内避難民支援などを継続してきた。南スーダンにおいては、内戦勃発の影響を受けて、2013年12月に国際協力機構(JICA)事務所が撤退、1年後またジュバで事業を再開したものの、2016年7月の衝突で再度撤退を余儀なくされた。18年9月に再びJICA事務所に日本人スタッフが常駐を開始し、今年5月にナイル川の架橋工事が本格的に再開された。またジュバの浄水場の建設や、上水道の整備など、ジュバの人たちにとって死活的に重要なインフラ支援も、その再開に向けて事前調査を続けている。こうした支援は、南スーダンの人々もよく知っており、どこに行っても「日本には感謝している」という言葉をかけられた。
 こうした地元から得ている信頼を活かして、世界各地の異なる政治グループや民族、部族の対話の促進者、「グローバル・ファシリテーター」に日本はなれるのではと私は主張してきた。今回もイラクでの講演では、「イラク政府の重要課題について、定期的に各政党が集まり、議論を繰り返して、信頼関係を強化しながら、解決策を探していくようなプロセスを日本が支援することはできるのでは」と提言した。またジュバでの講演や唯一の全国放送である南スーダン国連ラジオでは、「マチャール氏がジュバに戻ったら、キール氏とマチャール氏が定期的にこうしたラジオ番組に共に出演し、諸課題について議論しつつ、全国の国民に『今度はもう戦わない』というメッセージを出し続ける、それを日本が支援することはできるのではないか」と話した。
 対話を促進する具体的な方法は、それぞれの現場で異なるはずだが、対話の促進者として役割を果たすことは、米国や中国にはできない、日本独自の外交の一つの柱にできるのではと、一連の訪問を通じて思いを強くした。そして南スーダンが、今度こそ持続的な平和の方向に向かい、多くの難民が安全に帰還できる日が来ることを願いつつ、ジュバを後にした。

【著者略歴】
ひがし だいさく 1969年生まれ。NHK報道局ディレクターを経てカナダ・ブリテイッシュコロンビア大学でMAとPh.D.取得。2009年国連アフガン支援ミッション和解・再統合チームリーダー。2011年東京大学准教授。12~14年国連日本政府代表部公使参事官。東大復職後2016年より上智大学。著書に『平和構築』など。